狩野光男さんが描く東京大空襲パネル

改憲の動きの中で、戦争の悲惨さを伝えたい

狩野光男さん

 第二次世界大戦終結から70余年、画家・狩野光男(かのうてるお)さんは1945年3月10日、実家の浅草で東京大空襲にあい、両親と2人の妹を失い孤児となりました。
 「空襲のことはずっと描くことは出来なかった」という狩野さんは、12年前からやっと描くことが出来るようになり、30数点の絵を完成させました。
 「絵による体験談」は大きな反響を呼び、NHKによる番組化をはじめ、「毎日新聞」「しんぶん赤旗」などにもとりあげられました。
 その1枚1枚に「戦争の真実を伝えたい」、「二度と戦争をおこしてはならない」という狩野さんの思いがこめられています。
 再現は具体的で、絵を見た見知らぬ人から「これは私だ」といって号泣されたほどです。
 戦争の実態を知り、平和憲法を考えるきっかけにしていただきたく企画しました。

A3サイズ・厚紙・23枚1セットのパネル/台本を裏に貼ると紙芝居に

企画・販売 株式会社きかんし
発行日 2005年7月15日
内容 絵画20点、略歴、狩野氏被災地図、東京大空襲被災地図・カラー
狩野光男氏略歴 1930年12月3日 東京・旧浅草区新吉原角町7に生まれる。被災時は千束3丁目11(現 浅草5丁目)居住。区立待乳山小学校(現 東浅草小)、都立第17中学校(現 日本橋高校)2年のとき大空襲にあい、両親と妹2人を失う。
先祖は、江戸狩野派表絵師築地小田原町・狩野家の狩野梅雪。
終戦まで横浜磯子の兵器工場に学徒動員で勤務、戦後は学業の道を絶たれ、墨田区の画家・奈良義雄氏に内弟子として入門。6年間修行して独立。
映画看板・新聞広告のイラスト等で生計を立て、春陽会、光風会を経て現在無所属。剣道5段。
価格 A3サイズ・厚紙・23枚1セット、パネルの裏に貼れば紙芝居になる台本付きで2,000円(税込・送料別)
多数普及し、世界中で展示されるよう価格を大変低く抑えました。個人でも購入し、保存できる価格です。まとめ買い大歓迎。
連絡先 株式会社きかんし第1営業部
TEL 03-5534-1133 FAX 03-5534-1235


 お申し込みは、注文ページをプリントし、FAXでお送り下さい。

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画家・狩野光男氏の「絵と証言による東京大空襲」講演

 2005年8月3日・東京文京区民センターで東京大空襲で両親と2人の妹を失った画家の狩野光男氏を招き、その体験を聞く会を開催しました。
 その悲惨さと生き残ったことへの負い目から「58年間、空襲のことを話すことができなかった」という狩野氏ですが、2年前からその時の状況を絵にあらわすようになりました。講演はその絵を見ながら、当時の生々しい状況を追体験するものになりました。

皇民教育一色の少年時代

 私は1930年生まれですから、日本の軍国主義華やかなりしころ、少年時代を送りました。そのとき教育がいまで言う「皇民教育」を受けました。「わが日本は神の国であり、万世一系の天皇をいただく世界に類ない優秀な国である。八紘一宇の精神をもってアジアを統一し、白色人種からアジアを守るんだ。天皇陛下は現人神であり、天皇陛下のために自分の命を捧げるのは最高のモラルである」というような教えを受けて育ちました。
 もっとも平成になってからも某元総理大臣が「日本は天皇を中心とした神の国である」と言ったくらいですから、当時私たち小学生がそう思ったのは無理もないと思います。
 私が小学校5年生の時に大東亜戦争が始まりました。天皇陛下が国民に対してこれから戦争をするぞということで、昭和16年12月8日に「宣戦の大詔」が発令されました。学校の校長先生が全校生徒の前で、これを読み上げます。いまやっている戦争は大変な戦争なんだから、おまえたちも一生懸命やらなければいけないと言うわけです。
 その大詔の中で、なぜこの戦争が始まったかについて理由を述べています。
 「米英両国は軍事上、経済上の脅威を増大し、もって我を屈従せしめんとす。かくのごとくにして推移せんか。東亜安定に関する帝国積年の努力はことごとく水泡に帰し、帝国の存立、またまさに危殆にひんせり。ことすでにここに至る。帝国はいまや自存自衛のため、決然たって一切の障害を破砕するのほかなきなり。皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、億兆一心国家の総力をあげて征戦の目的を達成するに、違算なからんことを期せよ」とおっしゃっています。
 私たちも当然、征戦の目的を達成するために一生懸命、学校教練も勉強もやらなければいかん。しかし、そのうち中学2年生の2学期になると、学徒勤労動員法というのができて、中学生以上は軍需工場に行かされ、兵器をつくる手伝いをさせられました。勉強はいっさいすることができませんでした。

窓が真っ赤に染まった夜

言問橋あたり

 昭和19年の11月半ばを過ぎると、B29が飛んできて1万メートルの高さから爆弾を落としていきます。幸いにして工場には落ちることがなかったんですが、いよいよB29の範囲内に入ったという実感が、子どもながらに湧いてきました。
 年が変わって昭和20年は元日から空襲がありました。私たちは正月休みもなく、軍需工場に行っていました。3月10日は、昔の陸軍記念日で、日露戦争の時、奉天に日本陸軍が入城した日です。この日にはアメリカは何かをやってくるに違いないから用心するようにとの先生からの注意がありました。
 それまでも当然そうだったですが、寝る時には洋服を着てゲートルを巻いて、枕元には鉄かぶとと鞄、靴を置いていました。当時は各家の床下を掘って防空壕を作り、そこに入ることを義務づけられていました。しかし、私は素人の掘った防空壕の方が危ないと思って入りませんでした。
 ほとんど毎晩のように空襲があったので、少しふてぶてしくなっていました。3月9日の夜は昼間の疲れもあって一人でグウグウ寝ていました。12時ちょっとすぎごろ、どうもいつもと違うように騒がしい。窓を見ると真っ赤になっているんです。開けてみると近くまで燃えているんですね。
 すごい勢いで燃えているので、びっくりして防空壕に入っていた両親たちを促しに下りていったんです。親父が出てきて「これはいかん」と。当時、焼夷弾が落ちたら消火するように言われていたんですが、警防団の人は状況を見てとても消せないと判断して、避難してくれということになりました。
 私の家は非常持ち出し用のリュックなどがそろっていたし、身ごしらえもちゃんとしていたので、逃げるのに手間取りませんでした。ほかの家のようにふとんや荷物を持たずに、重要書類だけ入ったリュックと手回りのものだけ持って逃げました。

大混乱の隅田公園

 私の家はいまでいう浅草5丁目で、当時は千束3丁目でした。そこから逃げたわけですが、人間というのは火に向かって逃げられません。暗い方、暗い方に逃げるわけです。警防団もその方向に誘導します。暗い方というのは私の家から見るとやや南で、隅田公園が逃げ場所になっていました。
 逃げていく途中、B29が来ました。ふだんは1万メートルくらいの高度で来るんですが、この日は1500-2000メートルという低空で来ました。いままで当たらなかった日本軍の高射砲が当たりました。真っ二つになって落ちていくのを見た時は喝采したものですが、向こうも焼夷弾をどんどん落としてきます。直撃を受けて亡くなる人もいました。
 その中を逃げて隅田公園に行ったんですが、家の近所や日本堤などから逃げてきた人が殺到して、いっぱいになってしまいました。隅田公園には高射砲陣地があってふだんは入れなかったんですが、緊急事態ですからみんな入ってしまいました。
 周りには木もあるし、このまま助かるのかなと思っていたんですが、そのうち火の手が迫ってきました。火の粉がものすごい勢いで突き刺さってきます。それから急激に酸素がなくなってきて、呼吸が困難になりました。
 防空頭巾というのはいいようで、危ないものなんです。布でできているので火の粉がつくと、気づかないうちに燃えてしまうんですね。それが着物に移って燃えだして初めて気がつくんですが、その時はすでに遅く、全身が炎に包まれて、そのまま倒れてしまうか、絶叫して走っていく。そんな状況がだんだん周りで起こってきました。
 隅田公園いっぱいに詰めかけていた群衆がいっせいに立ち上がって移動を始め、大混乱になりました。それまで私は父親と手をつないでいたんですが、手が離れてしまい、10人か15人くらいの人の下敷きになりました。このままつぶされてしまうのかと思いました。何とか這いだしたんですが、その時には家族とは離れていました。
 家族は両親と小さな妹2人、同居していた女性2人でした。私を入れて7人で逃げたんですが、独りぼっちになってしまいました。火の粉をはたきながら、地面に穴を掘ってそこに顔を突っ込んで、いくらかでも酸素を吸おうとしましたが、それも限界があります。周りを見ると、たくさんの人がグタッとしていました。

川面まで火がなめていく言問橋付近の火焔地獄

船着場 

 隅田川の言問橋のところまで逃げてきたんですが、あまりにも熱いので川に下りる階段の途中まで逃げました。しかし、火は川面をなめていくんですね。そして、川の中にいる人の顔や上半身を焼いていくんです。後に水死体になった人の顔が焼けていたので、川の水が煮えたぎったんだという人がいましたが、川の水は流れているので煮えることはありません。冷たかったんです。炎で上半身を焼かれて亡くなったんです。
 炎は川の中央からひどい時は向こう岸まで届いていました。川の中に後から後から人が飛び込んでくるんですが、先に飛び込んだ人が沈んでしまいます。人が何重にもなって、その上にさらに人が乗っかってしまう。
 言問橋の上には、橋から見て向島側の人たちは浅草側に向かって、浅草側の人たちは向島側に向かって逃げてきました。そのため、橋の上でぶつかり合って動けなくなってしまいました。だれかの荷物に火がついて、そこから人に火が移りました。橋の上は大火災になりました。下から見ると橋が燃えているように見えるんですが、鉄の橋なので燃えるはずがありません。人が燃えていたんです。
 欄干に張りついていた人はみんな亡くなりました。飛び降りた人もいましたが、ほぼ亡くなったそうです。「天皇陛下万歳」と言って飛び下りた人もいました。なんでそんなことを言うんだろうと思ったんですが、いま考えてみると自分が死ぬ時のせめてもの意味をつけたかったんだと思います。
 消防自動車は最初のうちは川から水を吸い上げて橋の上の人にかけていたらしいんですが、そのうち自動車も焼け、消防士も死んでしまいました。橋の下では多くの人が逃げまどっていました。

絵を通じて60年ぶりの再会

父と子

 次の日の朝になってある親子を見ました。
 そのお父さんは3歳くらいの子をおぶって川に飛び込んだそうです。飛び込んだ時は引き潮だったんですが、だんだん潮が満ちてきて立つのが難しくなってきた。たまたま杭が立っていたので、それにつかまってかろうじて立っていたら、人がたくさん寄ってきました。大勢がつかまると杭が折れてしまうし、自分たちも沈んでしまうので、このお父さんはすがってくる人たちを突き飛ばし、蹴飛ばしました。その人たちは川に沈んでいったそうです。
 六本木で展示会をやった時、この様子を絵にしたのを見て、63歳くらいの人が「この子は私だ」と言って、私に抱きついて泣きました。人の犠牲の上に今日の自分の命があることに悩んできて、60年間だれかに話したこともないし、都の慰霊堂にも行けなかった。しかし、今年60周年の節目なので慰霊堂に行き、この時突き飛ばした人たちの霊を弔った。そして帰りに私どもがやっている「空襲展」に来て、私の話を聞いて絵を見ているうちに、これは自分だとわかった。それで男泣きに泣いていました。
 ある14歳の女性は泳げないのに橋の上から飛び込んだんですが、近くにいたおじさんと一緒に、流れてきた角材につかまって何とか助かったそうです。火が下火になってから川から上がりました。近くで何かが燃えていたので、そこに行って濡れた服を乾かし、暖をとったんですが、夜が白々と明けてきてよく見ると、それは人と馬が燃えているところでした。
 暖をとっていた人たちは一人二人と去っていったそうです。

黒こげになった死体の山

 その朝、私がいた川に下りる石段には、びっしりといたほとんどの人が亡くなっていました。おそらく、窒息死、一酸化炭素中毒死、ショック死だろうと思います。傷はほとんどありませんでした。私だけなぜか助かりました。鉄かぶとで川の水を私たちにかけてくれた人も、水の中に沈んでいました。
 高射砲隊の兵隊が来て、あまりの惨状にびっくりしていました。「この中にだれか生きている者はいないか。いたら上がってこい」と言われ、私は死んでいる人たちを踏みつけて上がっていったんですが、非常に驚かれました。
 階段から上がると、黒こげの死体がゴロゴロしていました。まだいぶっていました。私もそこにいたら、同じようになっていたはずです。切れ端か何かを見つけて、自分の身内と確認したらしい人が泣いて死体にすがっているのを、私はぼやっと見ていました。人間の尊厳などまったくない状態でした。
 それから言問橋の浅草側に上っていくと、死体の山でした。消防自動車は焼け、消防士も自分の持ち場についたまま亡くなっていました。死体はいろいろな形をしていました。ピンクもあれば真っ黒もあれば、マネキン人形のような人もあれば……。何がどうなってそうなったかはわかりませんが、いろいろな形で亡くなっていました。
 橋の真ん中の方はまだ煙っていて、暑くてとても行けません。あきらめて、家族が待っているのではないかと思って自分の家の焼け跡へと帰ってきました。
 家に行っても何の連絡もないので、また言問橋の方に引き返してきました。もう昼ごろです。橋の上は一番最初に片づけなければならないということで、軍隊が出てきて遺体をジャリッジャリッとスコップですくってはトラックに積んでいました。手だけとか足だけとか、何だかわからないものも一緒くたにしてゴミ同様にして持っていきました。
 鉄かぶとがたくさんあったんですが、鉄かぶとの中身は溶けてしまって形をなしていないので、後に鉄かぶと一つは死体一体とみなしたということです。ほかにもボタン4個で一体、がま口の口がね一個が一体というふうにして、死者数を割り出したそうです。
 作業している人たちは無表情で黙々とスコップで遺体をすくい上げていました。遺体は身元が確認できないので、上野などの空き地に穴を掘って投げ入れていました。ですから実際に何人死んだかは、本当のところはわかっていないのが実情です。

遺体を背負って山手線に

上野の遺体置き場

 上野の両大師には水死体がたくさんありました。水死体は胸にネームをつけているし、顔もちゃんとしていたので識別ができるわけです。私の父親もここで見つかりました。
 身内を探し出した人たちが泣いていました。でも、この人たちは名前がわかったので、一体ずつ番号をつけて埋めてもらい、最終的には遺骨ももらえたので、いい方と言わざるをえません。
 山手線が動いていたので、上野に行ったついでに乗ってみました。日暮里駅から遺体を背負った人が乗ってきました。たぶんどこかで身内を亡くしたんでしょうけど、遺体を道路に置いておくとトラックが来て片づけられてしまうので、自分の家の近くまで持っていくつもりだったんだと思います。乗り込んできた時はみんなびっくりしましたが、それと察して両手を合わせておがみました。
 ずっと家族を探しつづけてきて翌日、今度は向島の方へ行きました。浅草松屋がまだくすぶっていました。1週間くらい燃えていたそうです。松屋はシャッターが下りていて、その前でもかなりの人がうずくまるように焼け死んでいました。東武電車の鉄橋の枕木もくすぶっていました。
 川には無数の水死体が流れていました。船を出して引き上げようとするんですが、なかなかはかどりません。川にどんどん飛び込んだために、一体揚げても下から下からと上がってくるわけです。ただぼう然と眺めている人がたくさんいました。
 それから吾妻橋を渡って浅草の方へ行きました。工場へ行く時に乗っていた都電の浅草駅のあたりを歩いていたら、昨日まで工場で一緒に働いていたクラスメートとばったり会いました。「家族を探している。どっちにしても家は焼けてしまったので田舎に行くが、学校へ行ったら先生方にそう伝えてくれ」と頼みました。
 そう伝えてくれたらしいんですが、昨年、59年ぶりに会った時、彼は「そんなことあったかなあ」とすっかり忘れていました。

天皇視察、遺体処理を急げ

天皇視察

 私の知り合いに当時の芸大生がいます。電車が止まっていたため、お茶の水から新小岩まで線路を歩いていたら、亀戸のあたりの防火用水の中で、親子がきれいな顔でどこにも傷もなく亡くなってい
た光景を見たそうです。周りにはまだくすぶっている人がたくさんいたそうです。なぜこの親子だけきれいに死んでいるのかわからなったそうです。絵描きさんですから、そういうのをよく覚えています。いまだに「あんなきれいな死に顔を見たことがない。傷がないだけに残酷に思えた」と言います。
 3月18日、昭和天皇はもっとも被害が大きかったといわれる深川地区を視察されました。それが決まった時、側近から警視総監に電話が入って「遺体はいっさい片づけろ。見せてはならん」ということで、警防団や警官、軍人が総動員されました。深川のあたりは山のような遺体だったそうですが、大きな穴を掘って数も数えないでどんどん入れて、きれいにしました。昭和天皇はその上を踏んで視察されたそうです。
 もしこの時、遺体をありのままに見ていただければ、終戦の日が早まったのではないかと私は思っています。天皇にはひどいところは見せないというのが側近たちの心得のようです。ここに埋められた人たちがどんな思いだったかと考えると、本当に胸がつまります。

絵を描くのは追悼

 私はそれから湘南富岡兵器工場に行き、終戦の日まで働きました。8月15日に玉音放送があるからというので聞きました。その時の終戦の詔勅はこうでした。
 「戦局必ずしも好転せず。…」
 これを聞いた時に、私はあの空襲で死んだ大勢の人たちは何だったんだろう、自分の家族は何のために死んだんだろうと思いました。戦争が終わったのはうれしいけれども、どんな意味があったんだろうと思いました。
 戦後になって、尊い犠牲の上に今日の平和と繁栄があると言われますが、私はそう思いません。ことに空襲で亡くなった人は完全に無駄死にです。公的な記念館一つありません。片手をなくしても両足をなくしても補償もありません。法律上、戦争で死んだ人は行き倒れということになっています。それで、なんで「尊い犠牲」なんでしょうか。
 ただ、今後そういうことがないように、生き残った者は運動をしたり語ったりすることがせめてもの追悼です。でも亡くなった人の無念は絶対に晴れない。私が絵を描きはじめたのは、少しでもその無念さを後世の人に伝えて、生き残ったという負い目をいくらかでも軽くしたいという気持ちからです。
 絵を描いているといろいろな証言をしてくれる人がいて、またそれを絵に描いています。自分が描ける間は続けていきたいと思っています。