<第5回>地図で見る社屋周辺
きかんし旧社屋のあった場所には、江戸時代、片桐石見守(かたぎり いわみのかみ)の屋敷がありました。
現存する地図の中で、いくつか入手したものがあるので、今回は、今日に至るまでのその時代その時代の地図を眺めながらきかんしの今昔を見つめてみましょう。
きかんしは1949(昭和24)年に創立、3度にわたる増築のときには、江戸時代の屋敷跡から生活用品が出土されています。残念ながら大判・小判などの金めのものは見つからなかったようです。
江戸、明治、大正、昭和(戦前・戦後)の5枚の地図を掲載してみました。[地図をクリックして拡大]
■文久2年は、坂下門外の変、水戸浪士らが登城途中の老中安藤信正(44)を襲った年。現存する青松寺、園福寺、真福寺などを向かいにして、片桐石見守の屋敷があります。石見守は茶道の大宗匠だったとの話しもありますが、裏はとりきれていません。
このあたりは徳川家のお寺・増上寺をはじめ多くのお寺が門を構える寺町でもあり、武家屋敷の集まった土地でした。(上左)
■1876(明治9)年は、官公庁で土曜日半休、日曜日休日制が実施され、20才を成人と定め、ボーナスが三菱系企業で初めて支給された年です。武士の時代が終わりを告げ、地図の上では、愛宕下ニ丁目の甲三番と表示されているので、おそらく明治政府の所有地だったのではないでしょうか。1884年に廃院となった「東京府病院」がみられますが、そののち慈恵病院の前身、有志共立東京病院が入ることになります。(上中)
■1921(大正10)年の社屋の場所には、愛宕町二丁目4番の表示があります。現在の港工業高校の場所には愛宕高等小学校が作られています。東京慈恵会医学校、芝郵便局、芝電話局(現NTT)はすでに現在地に見られます。この年は前年10月1日に実施された第1回国勢調査の結果が発表された年。本土人口は5596万3053人でした。(上右)
■1941(昭和16)年は真珠湾攻撃の年、不幸なアメリカとの開戦の年でした。戦時体制の下、愛宕高等小学校は愛宕高等国民学校の名前に変わっています。このときはすでに愛宕山の下を抜けるトンネルが出来ていました(1930年完成)。(下左)
■1972(昭和47)年になると、きかんしの場所は西新橋3丁目17番となり、すでに現在と同じ住居表示になっています。周辺を見渡しても主要な建物は現在とほとんど変わらないことがわかります。この年は田中内閣が発足した年で、「日本列島改造論」が出された年でもあります。(下中)
■2004(平成16)年に本社は江東区辰己に移転しました。この辰己の土地は、1926(大正15)年2月 に隅田川改良工事による埋立許可が下りた東京湾埋立7号地です。
1936(昭和11)年12月に 辰巳橋が竣工し、東雲(東京湾埋立6号地)・豊洲(同埋立5号地)地区と接続しました。
1978(昭和53)年には東京港港湾計画による東京湾埋立12号地が竣工しました。 弊社のある辰己2丁目は1968(昭和43)年4月1日に住居表示が実施されました。辰己という地名の由来は、皇居の辰巳の方向(南東)にあるために名づけられたのですが、江戸時代においては深川(現在の門前仲町近辺)を「辰巳」と呼称していました(辰巳芸者など)。